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● ゆっくり受付

「チリン、チリン♪」
入り口にある受付で私は鐘を鳴らした。それから3分ほど経ってからまた鐘をならす。
「チリン、チリン♪」
私は「こんばんは」と言ってみたが、まったく反応が無い。
ここは長野の湯田中という温泉街にある一軒の宿。今日はここで宿を取ることにしていた。それなのに、入り口で人を呼んでも全く返答がないのだ。
「チリン♪チリン♪こんばんは!!」
「は〜い♪」
今度は強い口調で言ってみたら、やっと上の階から返答が返ってきた。「よかった」と思いながら返事の主を待つ。5分後にその声の主が現れた。
「ごめんね〜。来てくれてありがとう。うれしいです♪」
声の主はおばあさんだった。足が少し悪いのだろう。引きずりながら歩くその姿が少しだけ愛しく見えた。
普通ならこれだけ待たせられているのだから怒りもする。それが今回は全く怒りの気持ちが起こることが無かった。そのおばあさんの姿を見た瞬間に、私は既にココロを許してしまっていたのだ。なんというのだろう。その存在感なのか、雰囲気に既にはまっていたのかもしれない。
● 素直な感情を表現する
受付を済ませ、用意された部屋に案内をしてくれる途中でも「来てくれてありがとう。うれしいです♪」と2度も言う。案内してくれた部屋でお茶を出してくれて、また「来てくれてありがとう。うれしいです♪」と言って部屋を後にした。
「うれしい」という言葉をそのまま相手にぶつけることを自分はどれだけ行ってきただろう。思わず部屋で考え込んでしまった。『うれしい』という気持ちを表現することをほとんどしていないのではないかと。
『うれしい』という言葉自体は誰でも知っている。それを日常の生活の中でどれだけの人が使用しているのか分からない。自分の気持ちを表現する多くの言葉の中で、『うれしい』という表現は目にすることはあっても、相手に直接言葉で向けられることはほとんど皆無に近いのではないだろうか。
少なくても自分自身が使った数は知れている。相手から言われることがあっても、使った経験が少ないことに後悔の念を感じた。
● ここはあなたの家
次の朝、朝食を頂こうと教えられた部屋に行った。そこは中広間といった感じの約20畳ほどの部屋に昨日宿泊した客約20名ほどが全員朝食を取っていた。そこで回りを見渡してみると、全員がシルバー世代。私以外、全員なのだ。
そして、思い思いのことを話しながら、食事をしている中に『あのおばあさん』も居た。食事をしているわけではなく、お客さんと一緒になって、話の輪に加わっているのだ。それもお客さんが嬉しそうで、おばあさんがあちらのお客とこちらのお客を繋いで話の輪に入れてしまう。全く見知らぬ人同士なのに。
そんな風景を見ていると、おばあさんが私が席に着いたのに気がついて、声をかけてきた。
「たくさん食べていってね」と言って、山盛りのご飯を出してくれた。
仲居さんというのは一歩どこか引いているところがある。それがお客と一緒になって、楽しい時間を過ごしているのは私はあまり見たことがない。でもここではそれが普通で、どこかの近所で立ち話しをしている人たちにも見えた。
「そうか!」
この光景を見て、思わず理解をした。この宿はある意味非日常的な空間ではなく、日常なのだ。他のお客さんを見ても、全員が楽しく談義をしている。ここは自分の家みたいな空間になっているのだ。
その表現が正しいのかは分からない。ただこの空間にいれば、自然とそのように感じてしまうのだ。
「温泉まんじゅうを持っていくか?」
別のスタッフのおばあさんが声をかけてきた。自分の祖母に言われているような気がした。折角来たのだから、お土産に持っていけといわんばかりに。しかし、ここは温泉宿。その言葉は温泉まんじゅうを販売するため、お客さんに声をかけていたのだ。購入してもよかったのだが、丁重にお断りをした。
自分は体を休めにきたのではない。人と語り合うために来たのだから、土産は必要ないのだ。
それでもかなりの数の注文を取っていった。やはりこの宿はココロ許せる何かがあるのだろう。今から考えれば、温泉まんじゅうを購入してもよかったなと思っている。あの時の思い出にもう一度触れられるツールになるのだから。
● 出発の時
朝食後、身支度を整えて、出発の準備をした。受付に行って、宿泊代の清算する。今度はすぐ受付に現れたおばあさん。そのとき言われた言葉に自分のココロは奪われた。
「働かせてくれて、ありがとう。うれしいです♪」
私は日本全国を旅しているが、宿泊した宿のスタッフが「ありがとうございました」ということはあった。しかし、働けることの感謝を自分に対して直接言葉で投げかけられるという経験は一切無かった。その姿勢に私のココロが一杯になったのだ。
「また来てね♪」と笑顔で話してくれる。
その笑顔を見せてくれた私は思わず泣きそうになった。その笑顔は屈託の無いかわいい笑顔だったのだ。
私は思わずシャッターを切った。その瞬間の笑顔をどうしても記録に残しておきたかったのだ。照れくさそうにカメラに笑顔をむけてくれたおばあさん。本当にありがとう。
この宿は正直言えば、サービスという面では普通のホテルや宿と比較すると劣る。でもそれ以上にココロが癒される宿。体ではなく、ココロの奥深いところにポッと暖かい火を灯してくれる宿なのだ。
「お世話になりました」とおばあさんに挨拶をして宿を出ようとしたときに、「ちょっと待って〜」と不意に呼び止められた。
「つまらんものだけど、宿の電話番号が書いてあるから。」
とティッシュをくれたのだ。ちょっとした営業だった。でもかわいい笑顔のおかげで一瞬のうちにティッシュに書いてあった宿の名前が頭の中にスーッと記録された。
世の中には色んな宿がある。サービスをきっちりとして、もてなす宿もある。サービス業だから当然と言えば当然だ。でもそれ以外にこんな宿もあってはいいのではないか。
この宿には必ずもう一度来ようと思う。ココロが疲れきった時、おばあさんに会いに行こう。そのときはこう言いたい。
「泊まらせてくれて、ありがとう。うれしいです♪」と。
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